野口体操・検証と継承の随想録
―
ビデオ製作に関わって ―
岸
昭代 寺島 康子 花崎 攝 大井 弘子 富永 由美
岸 昭代
議論をたたかわせながら、やがて協調していく楽しさ
師・野口三千三が逝ってから早四年になろうとしている。
御遺族から「父に直接教わったお弟子さん達の手で、野口体操をビデオに収めてみないか。」
とのお話を頂いた。
「今のうちにね。」と付け加えて、先生の御次男はにっこり笑った。
十代の頃からとは言え、何しろ四十年以上も先生に師事してきた弟子たちである。
この機を逃せばからだも動かなくなるであろう。
いや、成熟度から見て、今が最高の時かもしれない。そうだ、今しかない、と踏み切った。
三回忌直前の頃であった。
自然・モノ・コト・人間(自分)・・・・・・から言及した野口理論は、
実技と一致したときにはじめてダイナミズムを発揮する。
弟子たちの継承と検証となるビデオは、そのからだの動き(実技)で総てを表現したい、と目標を立て、
一年間の準備期間を持って十一月から撮影が始まった。
ところが、思ったようにコトは進んでいない。
それどころか、撮影の目標が大幅に変更となった。
もう一度出直しのつもりで、 少しゆったりとしたスケジュールに組みかえることになったのだ。
撮影を進めて行くうちに様々な問題があぶり出されて来る。
最も初歩的な、ビデオを誰に見せたいのか、どこまで解ってもらいたいのか
、伝える相手が決められない。
伝える側の思いだけが独走したまま、自分たちのあいまいさだけがはっきりしてくる。
そして、 このことの方が私にはショックなのだが、
何十年間も一緒にやって来たリーダーグループだから野口体操に対する共通の言語と、
からだの動きへの共通の理解があると固く信じていたのだが、そうではなかった、
ということが露呈されて来たことだ。
一人一人が直接野口先生と向き合っていたこともあろう・・・・。
「感覚こそ力」であり、結局それは“自分自身”の感覚を信じるところからはじまるのであるが、
その上で、自分の感覚に疑問を投げかけたり、客体化したり、晒したりすることの大切さを
どれだけ認識し、そのことに時間をかけて来たのであろうか・・・・・・。
リーダー達の間で、理念だけを話し合って頷き合うだけでなく、
実際のからだの動きを検証し合いながら確認を取って来たのだろうか・・・。
全く、しょんぼりする程の悪戦苦闘である。
こうして様々の問題を抱えて私たちのビデオ製作は振り出しに戻ってしまった。
ただ、確かな信頼が一つだけある。
少し綿密な打ち合わせや稽古をすれば、
みるみる共通の基盤を持てる財産としてからだを持っているということだ。
野口体操の数々の動きは、 長年に亘り師に直接薫陶を受けた弟子たちのからだの中に生きている。
くり返しその都度新鮮にからだにきく、そんな練習を積み重ねてきたのだ。
それは又、グループ製作というめんどうな体制をあえて選び、
激しいバトルを展開しながら検証していける理由にもなっている。
--2001年2月
舞台芸術学院卒業公演パンフレットから
ついに「野口体操-自然直伝」が完成しました
制服姿の女子高生たちが、メールを眺めてぼやいている。
「何だよ、この男。電話くれってよ、うざったい男だよ」。
仲間たちがそのメールを覗き込む。
「なに、ソレ」「めんどくせえ奴」「やだぁ」と口々相槌を打つ。
「子供たちの母親が、メールで校長に担任の不満を言ってくるのよ」と小学校の教師。
我が、舞芸の教師会でも、「今の生徒たちはメール派ですネ。ダメ出しもメールで出そうかな」と演出家。
少女たちの迷惑顔、教師の困惑と苦笑、演出家の鋭いジョークに思わず笑いが広がる教師会・・・・・・。
犯罪からブラックジョークに至るまで、このところのメールにまつわる出来事はいとまない。
頭ごなしに嫌な感じがしないのは、どれも“今”を感じさせて、私の感覚に響いてくるものがあるからだろう。
メールをどう捉え料理するか、メールは“今”を表現する大きな素材となって、優れた作品も出て来ている。
しかし、ただ面白がってばかりもいられない。
これって、演劇との距離はどんどん遠のいて行ってるってことじゃないか。
声に込められた感情や、息づかいや、その表現や、
つまりコトバが発せられるもとのところである思いは必要ないのか。うざったいだけなのか。
ところで、そんな時代の流れに逆行して私たちは、
実に3年間も悶着し合ってVHS、DVDの完成に漕ぎ着けた。
「野口体操-自然直伝(全3巻)」である。
準備期間を入れると5年がかりの作業だった。
一呼吸10年が当り前の生きて来た私にも、他人との厳しい5年間は少々長かった。
およそ、その人の持っているものの本質が表沙汰になるまで何十年も一緒に仕事をしてきた仲間で、
充分知り合えていると思っていた相手たちである。今さらながら、“気づき”が新鮮であった。
人は普段、こんなにも表面的で装った関係しか持っていなかったのか。
何十年の付き合いの中で今まで一体何を見せ、見て来たのだろうか。
それは又、自身に対する認識についても同じことが言えた。
自分を他者の前にまるごと提出し、他者を鏡として自身を見せつけられた時、
そこにはそれこそ今まで出逢ったこともない“自分自身”が顔を被いたくなる姿で立っていた。
人は又、こんなにも一人ひとり独自で、違ってきているものなのか、
その違いを支えている根の深さにたじろいた。勇気が必要だった。
人は解り合えることはほとんど不可能だと思い知っても、
それでも目的を同じくし、それを達成するためにさらに一歩踏み込んで行く。
作品を創る営みは、メール派が否定するうざったい関わりである。
表現者を育てる土壌もそこにある。
--2004年2月
舞台芸術学院卒業公演パンフレットから